言葉と意味
巡回サイトであるイラストレーターの安倍吉俊さんのサイトで面白い考察がされていました。
長文になりそうだったのでエントリーとして私なりにその問いに対し意見を述べてみたいと思います。
クオリアの問題に関してはあまり言及できないので、言葉に関してだけですが。
元ネタはマリーの部屋という思考実験ですが、安倍さんの設定した<マリー>の条件はもっと過酷です。
(与えられてるの辞書のみです)
そこから導かれた問いは
Q:全く知識のない人間が使用したとしても、すべての知識を検索し、理解できる辞書を作る事は可能か?
これは不可能だと考えます。
途中<辞書>や<マリー>の定義があいまいになっているので補足解釈(あくまで私的)します。
これは言葉のみによって言葉を説明し理解させることができるかという意味だと解釈します。
<辞書>は言葉しか載っていいない。
つまり音声もなく、絵もなく、色も均一の黒字と余白の白のみ。
<マリー>
1全く知識がない。→これでは文字が認識できない。
2(辞書に載っている)すべての言葉を知らない。→文節が認識できない。
3最小限の言葉と文法は理解できる。
3の場合かなり状況は変わります。先天的に取得している最小限の言葉を<文字>、<辞書>と仮定しても、
文法構造を理解できる(文法構造を理解できる仕組みだけははじめから脳に組み込まれているとする)ということは
自分で文を産出できる能力はあるということだからです。
では3から出発するとしてここで<マリー>の特殊能力を発動させます。
>●マリーは一度調べた言葉はすべて完璧に記憶します。
>●マリーは疲れないし絶対に諦めません。
>●マリーは食事も睡眠もとらず1日24時間辞書を引き続ける事ができます。
>●マリーは不老不死です。
>●ついでに、辞書の説明に使われているすべての言葉は辞書に載っています。
そして、辞書にはあらゆる事が載っています。
さらに、定義のブレをなくすために世界が単一言語、単一文字しかないと仮定します。
しかし、それでも知覚の問題を解消することはできません。
言葉とその指示対象の間には自明の関係はありません。音声もそうですが。それゆえに変化がおこります。
<辞書>にすべての事柄が載っているとすると、おそらく言葉の示す枠組み(輪郭)はかなり明確になってくるのではないかと思います。
しかし決して具体的な対象を知覚することはありません。
これはどういうことか。
<言葉1>を説明する<言葉2>というものがあります。<言葉1>は抽象的な概念などです。
<言葉1>に関しては<マリー>は<言葉2>を用いて私たち以上に優れた説明をするでしょう。
実体をもたない<概念>について<辞書>の定義にしたがうとするならば、<マリー>は私たち以上に理解していることになります。
しかし具体的事物を指し示すために作られた<言葉>については<マリー>は決してその結びつきを理解できません。
例えば自分の身体の一部でいいです。手という言葉を辞書で引いてみてください。おそらくかなりややこしい説明がされていいると思います。
むしろわかりにくくなっている。
そしておそらく身体の他の部位との関係も書かれているでしょう。
しかし、対象に対する手がかりがないため、<マリー>はそのどの指示対象をも知覚していないのです。
これでは言葉を理解しているとは言えません。
以上を踏まえた上で、
<マリー>は他者との(文字による)コミュニケーションが可能であるか
という問いに答えます。
決してコミュニケーションは成立しません。
それにはまず以下の条件が必要だからです。
1<マリー>は<私>と<他者>を認識している。
2<マリー>は社会性をもった<ヒト>である。
<私>と<他者>については深い言及をしようというわけではありません。
指示対象として、自分と相手を知覚できていないということです。当然社会性ももてるはずがありません。
<マリー>は<他者>を理解できません。
それでは<他者>の言葉であっても、<辞書>の言葉であっても<マリー>には同じ働きかけしかしないでしょう。
見たことがあるか。見たことがないか。
結論としては、
<マリー>は他者とのコミュニケーションは不可能である。
なぜなら
言葉のみによって言葉を説明し理解させることができるという前提が成り立たないから。
<マリー>は言葉の輪郭は捉える事ができるだろうが、<文字>と<辞書>以外は知覚対象を知りえない。
どうでしょう。とんちみたいに見えますかね?
しかしこれで<私>と<他者>を認識できるという条件までも加えてしまったら、そもそもの(辞書以外)知覚体験を伴わずにという条件が成り立たないんですよ。
指示対象との結びつきを理解できる。そして区別もできるというのはとても重要なことなんです。
それによって言葉の世界は広がっていくともいえる。だから言葉は社会性をもっているといわれるわけです。
もし他が存在しない自分のみの世界であるなら、そもそも言葉は広がりを持てないですから。
またコミュニケーションという行為にはそれ自体社会性を含んでいますよね。
言葉が言葉だけに終始するというのは、これはもう私たちが持つ言葉の性質からかけ離れてしまっています。